背景

 

文庫本「ホンダ神話 Ⅰ・Ⅱ」を読み終えた。

ホンダの創業期から現在までの出来事が書かれている本。

 

ホンダが、急成長したのは、宗一郎氏の技術の才能と藤澤氏の経営の才能と同時に時代背景がかなり影響しているのが判る。

 

零細企業から世界的な大企業への成長。

その過程には、急成長ゆえの問題や課題が生まれ、その都度、解決し乗り越えてきたのが判る。



特に欠陥車騒動では、社会から見たホンダは、大企業と言う評価を受けていながら、当事者たるホンダは、まだ、中小企業と言う認識しか持っておらず、急成長した故に社会からの会社の評価と自分達の会社の評価の違いが、意識の違いになって現れた。

バイクでは、世界的に有名になっても、車では、日本国内では、最後発だからこその意識の違いだったかもしれない。

 

その意識の違いは、欠陥車騒動でホンダの専務が国会へ呼ばれ、あまりにも高姿勢な発言をすると言う結果までもたらした。

そして、その発言に対して、マスコミが敏感に反応し、非難の的となった。

 

中小企業の時と同じ感覚で、忙しさに忙殺され、企業は、社会の一部と言う事を忘れた結果が、認識のズレを生じさせたが、この騒動のおかげで、自らの社会的立場を認識するする事が出来、社会のとの対話を考える結果になったのだから、怪我の功名となったが、藤澤氏にとっては、心残りの一つになった。

これを契機に、社会との対話をする為に、宗一郎氏・藤澤氏の私財を元に財団法人を作ったり、安全運転教育を始めたりした。

 

とは言え、一度落ちた評判は、そう簡単には回復しない。

その回復におおいに貢献し、世界的にホンダの名前を有名にしたのが、言わずと知れた低公害エンジンであるCVCCである。

 

GM・フォード・クライスラーのアメリカの当時のビックスリーが絶対にクリアー出来ないと言わしめた排ガス規制法であるマスキー法案の数値をクリアーしたエンジンを開発した事により、一気に名声は世界的なモノになった。

 

このエンジンの開発に際し、空冷派(空気でエンジンを冷やす方式)の宗一郎氏一人と水冷派(水でエンジンを冷やす方式)の研究所の技術者との対立が起こり、藤澤氏の「一人の技術者としてホンダに残るか、社長として残るか」の問いかけ対し、社長を選んだ宗一郎氏だったが、もし、この時、藤澤氏の問いかけを無視していたら、どうなっていただろうか?

いずれ、世界的には有名になったかもしれないが、その時期はかなり遅れていたのではないかと思う。

 

この対立は、宗一郎氏の技術者としての限界と言うよりも、年齢とともに思考の柔軟性をなくしてしまった結果とも言えなくないと思う。

藤澤氏も、それを感じとり、CVCCエンジンの開発・発表を宗一郎氏の引退への花道として、脚本を書き始め、二人の引退へとつながる。

 

だが、のちに藤澤氏は、宗一郎氏なら空冷エンジンでも、マスキー法に対応したエンジンが開発できると語っている。

 

二人が引退した後は、藤澤氏の考案した役員の大部屋制度の利点を最大限活用し、さらなる発展を続けたが、それも、宗一郎氏・藤澤氏の両名が健在しているまでであり、亡くなってからは、その制度もなくなる道をたどった。

 

どこの企業も同じだと思うが、創業者が偉大すぎるとその呪縛から逃れるには並大抵の事では出来ない。

藤澤氏は、宗一郎氏のカリスマ性をいかんなく発揮させるために、ホンダ教の教祖として宗一郎氏を演出してきた。

宗一郎氏も、それを知っているがごとく、名俳優ぶりを発揮してきた。

だが、これが、宗一郎氏を予想以上の大きな虚像に作り上げる結果になってしまった。

そして、宗一郎氏の虚像は、いたるところで役員達には呪縛になり、その後のホンダの方向性に影響を与えてきた。

呪縛の最大のは、経営手法にあるのではないかと思う。

 

イトーヨーカ堂の育ての親とも言える伊藤雅俊氏の言葉で、

 

「成功した創業者と言うのは、ある意味で”狂気”なのです。

創業期に他人と同じ事をやっていては企業を大きく出来ない。

違う事を違うやり方でやってきたからこそ成功したのです。

急激に伸びた会社の経営手法は、しょせん語り継げても受け継げないのです。」

 

と言うのがあるように「語り継げても、受け継げない経営」と言われるように創業者の経営手法は、あくまでも、創業時のみに使われるものであって、二代目からは、創業者の理念や会社内の風土を大切にしながら、時代に合った自らの経営手法を創り出さなくてはならないのではないかと思う。

 

藤澤氏で言えば、役員室の大部屋制度やエキスパート制度であって、販売店を拡張する為の手紙作戦ではないかと思う。

 

町工場から始まった本田技研工業は、トヨタや日産のように豊富な資金力もなく、販売店拡張に回す資金すら限られていた。

宗一郎氏が考案したエンジン付き自転車を販売する為に藤澤氏が考えたのが、全国にある自転車販売店へ手紙を出す事による流通網の拡張である。

 

最初の手紙には、商品の説明であり、興味があれば返信をしてもい、返信があって店舗へは、一台の定価と卸値の示し、代金先払いとの旨を書いた手紙を再度送った。

普通に考えて、代金先払いなど誰も相手にしないところを、メイバンクでもあった当時の三菱銀行の支店長名で、本田技研を信頼している旨の手紙を送ってもらっている。

これにより、一気に全国に流通網を拡大させる事が出来た。

 

こう言った手法は、創業時は必要な事かもしれないが、2代目以降は、どのように維持し、拡張していくかに手法が変わっていくのではないかと思う。

実際、今のホンダの販売チャンネルは、三チャンネルから一チャンネルになってしまったが、この統合には、本田技術研究所(本田工業)と本田技研工業(藤澤商会)との統合も絡んでいる。

 

本田工業と藤澤商会の統合は、独特の雰囲気のある企業を、どこにでもある平凡な官僚的な企業に変えるきっかけになった。

 

 

 

この本には、ホンダの事以外にも、日本・アメリカの自動車業界の再編の事が書かれてある。

 

日産が、再編の波に飲み込まれ、カルロス・ゴーン氏による改革が有名だが、それ以上に、トヨタのア自動車業界の流れの先読みと貿易摩擦の対応策の柔軟かつ迅速で、したたかな行動が判る。

 

自分は、性格か家系かは判らないが、管理されたり組織内での一人になるのは相に合わないのか、今まで、トヨタの様に管理された組織は合わず、トヨタ関係の本は読む気すら起きなかったが、これを機会に読んでみる気になった。

 

とは言え、一般にある改善やかんばん方式などと言った内容の本ではなく、トヨタの創業期から今までの歴史などが書かれてあるものであったり、影の部分の書かれているのモノだが。

 

光には常に影が伴うように、トヨタの好業績と言う光には、必ず影の部分も存在するし、その部分を知ってこそ、初めて光の部分の判ると思う。

 

大を活かす為には、多かれ少なかれ小を殺さなければならない事は、誰でも分かっているが、その小をいかに少なくするかは、両方を知っていて初めて考えられる事だと思う。

 

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