天国から地獄

「ホンダの原点」を読んで。

本田宗一郎氏と藤澤武夫氏が引っ張ってきた創業期であっても、中企業ゆえに倒産の危機には直面してきた。

 

自転車販売店を販売店にする事に成功し、販売網を拡大した結果、昭和24年には、月商四億円近くになる企業に成長し、27年の売上高は、前年比に比べて8倍の24億4000万円を記録した。

創業5年で、オートバイ・メーカーとして、国内第1位、世界第二位の地位になっていた。

 

この勢いに乗って、藤沢氏は、宗一郎氏の技術力を最大限活かす為に、設備投資をする事を決めた。

ただ、設備投資と言っても、国内レベルではなく、世界レベルでの設備投資をしたので、当時の金額で、設備投資金額が4億5000万円。

しかも、資本金600万円だったにも関わらず、役員会にはかけずに藤沢氏は、ほとんど独断で決定していた。

普通の経営者では、絶対に出来ない決断だが、宗一郎氏の技術を信用し、魅せられ、惚れこんだ藤沢氏だったからこそ出来たのではないだろうか。

宗一郎氏も、期待に応え28年の売上高は、前年比の3倍に伸びていた。

順風満帆の様に見えたが、他メーカーでも、似たような商品を出され、その商品を藤澤氏が開拓した販売網に流され打撃を受けた。

 

新製品を出したが、クレームが発生。

しかも、排気量アップによるマイナーチェンジをした車種にも、部品の不具合でクレームが出て、返品の山になってしまった。

 

しかも、28年の後半から販売がダウンし、資金繰りが悪化している中での労働組合との年末一時金(ボーナス)の交渉である。

藤沢氏は、会社の窮状を説明して、どうにか収拾を得た。

 

”主力商品全滅”と言う状況に陥り、29年に入ると造っても出荷できない製品と不良部品・不要部品が山のように滞貨した。

出荷数が落ち込むにつれ、販売店から送られてくる製品代金も激減する。

とは言え、手形の決済日はやってくる。

何か製品を売らない事には手形を落とせない。

それでは、どうするべきかと考えた末、営業担当者や販売店の話を聞き、統合するとマイナーチェンジする以前の車種は、まだまだ、売れると言う結論に達したので、打開策として、その車種を増産する方向に動き、緊急生産体制に入り、一週間後に宗一郎氏が、排気量アップの為に不具合が出てしまった部品の改良に成功し、製品化の目処が立ったと同時に古い車種の増産から減産に速やかに移行しなくてはならなくなった。

 

減産体制に入ると、世間の評判は必ず危機説に繋がる。

しかも、大打撃を受けた後だけに信憑性も増してしまう。

その対抗策として、当時のメイン・バンクに藤沢氏自ら、減産方法を話し、マスコミなどの社外からの問い合わせに対して、大丈夫だと言って欲しいと願い出た。

メイン・バンクの支店長は、新しく変わったばかりにも関わらず、藤沢氏を信用し、外部からの防壁になり、側面からの支援を確約した。

その甲斐あって、無事に最大の難局を乗り切る事が出来た。

 

外部に向けての防衛体制は出来たが、問題は、部品の外注業者である。

排気量アップした車種は、改良版の部品を変えるだけで問題はなくなる。

その為、しばらくに間は新規の生産はしなくてもいい事になる。

しかも、支払手形は15億円も残っている為、外注業者に部品の発注をする余裕はない。

メーカー側としては、在庫の部品を使えばいい事だが、外注業者側にしてみれば歓迎出来ない状況だった。

それゆえ、藤沢氏は、メーカー側の都合がいい要求を飲んでもらえるか悩み、倒産した場合の事も考えていた。

 

藤沢氏は意を決し、外注業者に会社の現状を説明した。

外注業者も生活がかかっている。

場合によっては、平常生産になった時に部品を納入してくれる外注業者がなくなる。

それでは、確実に倒産をする。

そんな思いの中での説明だったが、外注業者の代表者が

「事情は、よく判った。私達は、ホンダとともに苦しみを分かち合ってゆく覚悟だから、この際、全面的に協力しよう。」

と呼びかけ、事態の収拾を得た。

 

 

マスコミ・外注業者関係への対策は出来たが、労働組合との年末のボーナス交渉が待っていた。

会社側と労働組合側との要求額は、大幅にかけ離れて、会社側の要求額は、会社側交渉人でさえ「とてもこれでは話にならない」と言う額だった。

藤沢氏も、金額の低さは素直に認めていたが、会社の苦しい現状を訴えた。

「現在の本田技研は経理上、苦しい立場にある。

これは、俺達の責任だった。

しかし、仮にもう少し出せたとして、あとで会社が潰れたとき、なぜ、あの時に頑張ってくれなかったのか、と言われる事は、経営者としては申し訳ない事になる。

今は、組合の要求に応じられないが、来春までには企業状態も好転するので、その後に応えてゆきたい。

皆も判って欲しい。」

と呼びかけると、組合側は、万雷の拍手で受け入れの意思を示した。

組合員からは、「頼むぞ!頼むぞ!」と声援が続いた。

その声援を背に受けながら、藤沢氏は、

「何としてでも経営を立て直して、従業員に応えなければならない。」

と心の中で誓った。

 

確かに、会社の経営は苦しかったが、組合側の要求額に応えられなかった理由は、もう一つあった。

当時を回顧して藤沢氏は、

「主力商品が全滅した時、支払いを止められ、注文を大幅に減らされてもなお、ホンダを支援してくれる外注業者。

そこの従業員が、どのようにして年を越すかと思うと、どうしても組合の要求には応じられなかった。

あの時、もし、組合の要求通りに出していたら、ホンダの外注先に対する信用は、ガタ落ちしたであろう。

そうなれば、今日のホンダが存在し得たかどうか。

皆も苦しんだが、結果的には、あれでよかったと思う。

あの危機を乗り越えた事によって、ホンダ・マンは、人間的に大きく成長しました。」

と語る。

 

翌年の夏に行われたボーナス交渉でも難航し、組合のストライキや示威運動が起こり、瀕死の状態から復活して、再建計画を練っていた宗一郎氏と藤沢氏に精神的負担を負わせ、二人には非常にこたえた。

しかも、労働問題に真剣に取り組めば組むほど、労使間の溝は深まる一方。

ついに二人は、役員会に辞表を提出し、

「自分達は、これだけ一生懸命やっているのに、従業員は判ってくれない。

報われない事ばかりが多くて、もはや、夢も希望もなくなった。

あとのことは、みんなでよろしくやって欲しい・・・・・・・」

と涙ながらに訣別の辞を読み上げたが、他の役員達が辞意を思いとどまらせ、その場は収まった。

 

 

世界一を目指し、その目標に手が届きそうになった矢先の急転直下の倒産の危機。

まさに、天国から地獄を味わい。

危機の中から、復活する兆しが見えた時に労使問題。

普通の企業なら、労使双方が時間をかけてお互いに成長し、解決していく問題なのだが、宗一郎氏と藤沢氏の名コンビゆえに、会社の成長が急すぎてその時間がなかったのだろう。

 

しかし、一度だけとは言え、宗一郎氏・藤沢氏が辞表を出していたとは驚きだった。

順風満帆の成長とは思っていなかったが、まさか、そこまで追い込まれたことがあったとは。

 

 

今では、「世界のホンダ」と言われているが、もとは町工場。

その町工場を世界に羽ばたかせた宗一郎氏と藤沢氏の情熱。

アメリカン・ドリームならぬ、ジャパン・ドリームとも言えるのではないかと思う。

 

 

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