父親の背中を見て、自分の生き方を考える

本田宗一郎氏と藤澤武夫氏の共通点で、お互い貧乏で苦労したと言うのがあるが、それ以上に父親の背中を見て、かなりの影響を受けた事も共通点になるのではないかと思う。

 

宗一郎氏の父親である儀平氏は、小学四年生を卒業すると、鍛冶屋に奉公に出され、年期が明けた二十歳に、実家の納屋を仕事場にし、鍛冶屋としての第一歩を踏み出した。

儀平氏の打ったモノは一味も二味も違うと評判は上々だったが、儀平氏は、このままでは、農機具屋で終わってしまうと、結婚を機に、現在の国道152号線と362号線の分岐点にあたる場所にお店を移転した。

さらに、鍛冶屋だけの仕事では満足せず、鉄砲の修理を独学で学び、行うようになっていった。

 

仕事が順調に回り出した矢先、過労のため儀平氏が腰を痛め、仕事を弟子に任せる事になったが、一ヶ月もすると、儀平氏の仕事でなくては駄目と言う噂が広まり、仕事が減ってしまい、弟子も次第に去っていったと言う。

 

そんな辛いなか、儀平氏は、突然、自転車屋を始めた。

静岡の片田舎では、自転車を持っているどころか、見たこともない人がいる時代にである。

そして、東京では、古い自転車が鉄くず同然になっている事を聞き込み、東京から上京し、何十台も買い付け、分解修理し、新品同様にして、薄利多売で売りに出したと言う。

さらに、当時の自転車は、またぐとフレームが邪魔をして、女性には乗りずらいものだったが、現在のようなフレームに改造し、女性や和服を着たままでも安易にサドルをまたげるようにした。

 

鉄砲の修理であれ、自転車のフレームの改造であれ、現状に満足せず、新しい事にチャレンジ精神は、宗一郎氏に確実に受け継がれているのではないかと思う。

 

また、儀平氏は、「人の為になるなら金などどうでもいい」と言う考えだったそうだ。

この考え方は、宗一郎氏の根柢にあるのではないかと思う。

 

 

 

藤澤氏の父親である、秀四朗氏は、もともと銀行マンであり、独立するまで二度も銀行に勤めたが、銀行内の内紛に巻き込まれたり、倒産したりで運に見放されたが、銀行内の実情をよく知っていたため、この時、藤澤氏は、父親から”銀行と付き合う法”を伝授された。

 

秀四朗氏も、事業欲が旺盛で、いろいろと事業を興したが、段取りが悪く、途中で挫折を繰り返した。

 

それでも、借金経営ながら、広告・宣伝関係の会社である「実映社」を軌道に乗せる事が出来た。

仕事の内容は、映画館で上映の合い間に流すスライド広告の製作であった。

 

このスライド広告の製作では満足せず、大がかりな常設館ではなく、夜行列車の一車両を貸し切って、長距離旅行者を対象に、映画を上映しようと言う企画を思いつき、いろいろと手を尽くしたが、実現には至らなかった。

 

秀四朗氏は、アイデアマンであったが、新しい事業を興しても、それを順序立て、組み立てていく経営力に欠けていた。

そんな父親の背中を見て育った藤澤氏だからこそ、心底惚れ込んだ宗一郎氏の夢の為に、脇役に徹し、ありとあらゆる手段をもちいて、夢を実現をさせたのはないかと思う。

 

秀四朗氏は、「人間、早くから自分で自分の枠を決めるな」と言うのが口癖だったと言う。

こんな言葉を言える父親が、今の時代にどれだけいるだろうか?

 

そして、関東大震災の直後には、苦境の中、「逆境にあっても、自らの心を卑しくしてはいけない」と、藤澤氏に教えた。

 

この二つの言葉には、今の人には、なかなか言えない力強く太い芯が、一本通っている感じを受ける。

むしろ、戦争を経験した人達だからこそ、一本芯が通っているのかもしれない。

 

 

 

宗一郎氏は、父親の得手に帆をあげる事を見習い、自分の得手に帆をあげ、見事に夢を叶えたのではないかと思う。

藤澤氏は、父親の欠点を見る事で、反面教師にし、同じような欠点を持っている宗一郎氏の欠点を見事に補い、宗一郎氏の夢を実現する事が出来たのではないかと思う。

 

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