お仕事小説『仕様書のない倉庫』

第1話:通達

「来月から、一部業務をアウトソースしてください。」

その一文が、すべての始まりだった。

金曜の午後、本社から届いたメールを読んだ佐久間仁(さくま・じん)は、ディスプレイの前で固まった。
真栄物流センター――地方都市にある中規模倉庫のセンター長として、佐久間はここ十数年、ほとんど現場一筋で働いてきた。
倉庫の作業は身体で覚えるもの、細かい話は現場で口頭で済ませるもの――そんな“職人主義”がこの現場には根づいていた。

「アウトソースか……また、手間のかかる話を。」

佐久間は溜息をつく。だが、問題はそれだけではない。本社のメールには続きがあった。

「外注先に渡す仕様書を作成のうえ、3社から見積もりを取得してください。」

「……仕様書? ウチにそんなもん、あったか?」

思わず独り言が漏れる。
もちろん、標準作業書らしきものは存在していた。古いファイル棚に、埃をかぶった紙のバインダーが眠っているのを知っている。
だが、現場の誰がそれを開いた? 最後に更新されたのはいつだ? 書いた当人も、もう定年退職していたはずだ。

「仕様書ってのは、マニュアルとは違うのか……いや、そもそも誰向けに? 外注先に見せるとなると、相当ちゃんと作らなきゃな……」

佐久間は額に手を当てた。
作業内容、作業条件、数量、頻度――伝えるべきことが頭に浮かぶが、文書に落とし込む術がわからない。
自分が20年以上“感覚”で覚えてきたことを、他人に“言葉”で伝えるなど、想像するだけで気が遠くなる。

とりあえず、3社に声をかけてみた。
取引のある会社や、前から付き合いのある営業マンに「こういう作業をお願いしたい」とざっくり話をして、数量の目安とスケジュールを伝える。
だが、返ってきた見積もりは三者三様だった。

「うーん……全然、ばらついてるな。」

価格だけでなく、想定されている作業の手順も、それに必要な人員数もバラバラだった。

そんな佐久間の背後から、声がした。

「センター長、それ……仕様書がないからじゃないですか?」

振り向くと、そこには若手リーダーの石井美咲(いしい・みさき)が立っていた。
まだ入社5年目の彼女は、現場作業にも、改善提案にも積極的な存在だった。

「標準作業書って、昔のが棚に入ってますよね? あれを整備し直せば、仕様書として使えませんか?」

佐久間は思わず笑った。

「言うのは簡単だけどな……現場の“やり方”ってやつは、文章にすると難しいんだ。」

「でも、それを言葉にできないなら、外注するって無理じゃないですか?」

真っ直ぐに返されたその言葉に、佐久間は言葉を失った。

「……確かにな。」

それが、彼の“言語化”との戦いの始まりだった。

第2話:可視化という名の作業

週が明けた月曜の朝、佐久間と美咲は、古びた会議室の片隅に集まっていた。
机の上には、年季の入ったファイルが3冊。
「標準作業手順書」とタイトルがあるが、開いてみると文字は小さく、レイアウトは乱れ、写真も不鮮明だった。

「これは……平成初期って書いてありますよ。」

美咲がページをめくりながら苦笑する。

「だろ? ほとんど化石だよ。これじゃ誰も使わない。」

「逆に言えば、今のやり方が『正しい』のかどうか、誰も把握してないってことですよね。」

佐久間は黙って頷いた。
そう、現場は回っていた。
ベテランたちは熟練の勘で動き、若手は口頭で叩き込まれる。
ミスは少ない。
だが、「仕組み」ではなく、「人」に頼って成り立っていた。
このまま外部に仕事を委託すれば――それは、“職人の技”ごと引き渡すようなものだ。

「……よし、やるか。まずは“今”を見えるようにしよう。」

その日から、2人の“見える化プロジェクト”が始まった。

まずは現場の様子を記録することから始めた。
作業台の棚に小型の録画カメラを設置し、ベテラン作業員の手元がよく見えるように角度を調整した。
段ボールを組み立てる動き、バーコードを読むタイミング、どの順番で荷物を仕分けているか――それらを、ただ黙って録画していく。

「こうやって見てみると、意外と一人ひとりやり方が違うんですね……」

「そうなんだよ。長年の勘で動いてるからな。だけど外注に出すなら、誰がやっても同じ結果になるようにしなきゃいけない。」

作業を分解し、工程ごとにストップウォッチで時間を計る。
「なぜその順番でやってるのか?」と尋ねれば、「そんなもん、昔からこうやってきただけ」と返される。
しかし、ある日の午後、ベテランの久保田がぽつりと呟いた。

「……昔な、箱のサイズが今と違ってたんだよ。だからこういう順番にしたんだ。今はたぶん、逆の方がやりやすいかもしれん。」

その言葉に、佐久間と美咲は顔を見合わせた。

「なるほど。じゃあ今の仕様に合わせた手順に、見直す必要があるってことか。」

ベテランの知恵を「なぜ」に変え、それを紙に書き出す。
気づけば、作業内容だけでなく、どの部分が“誰にでもできること”で、どこが“注意が必要な点”なのかまで、整理されていた。

数日後。
作成した作業一覧には、こんな項目が並んでいた。
• 作業名:BtoB商品の入庫検品
• 作業条件:最大3人作業、午前中に納品が集中、温度管理は不要
• 作業量の目安:1日あたり平均40ケース(繁忙期は80ケースまで)
• 量が大きく増えたときの対応:
通常より作業量が大幅に増えた場合は、追加の料金や人手の相談を行うことをあらかじめ明記しておく

「これ……それっぽくなってきましたね。」

「“それっぽい”じゃなくて、“誰が見ても分かる”が目指すところだ。」

佐久間の表情は、ほんの少し誇らしげだった。

第3話:数値と相性

仕様書がようやく形になった週の金曜日。
佐久間は、美咲と一緒に会議室にこもっていた。
テーブルには、3社の外注候補企業の名前が書かれたリストと、これから送る予定のRFI――情報提供依頼の文書が並んでいた。

「これって、アンケートみたいなものですよね?」

美咲が言うと、佐久間はゆっくりうなずいた。

「そう。相手の実力や体制、管理レベルを、数値で把握するためのものだ。うちが求める条件を、言葉じゃなく“数字”で答えてもらう。」

そう言いながら、佐久間は一枚の評価シートを見せた。
そこには「安全・品質・納期・コスト・マネジメント」の5項目――SQDCMの頭文字が並んでいた。

「例えば、品質のところには“誤出荷率”を入れる。年間何件あるか、できればPPM(100万件あたり何件)で。あと、“標準作業書の整備率”とか、“作業ミスの記録と対策の有無”も入れておく。」

「でも……自己申告ですよね?」

「そう。だから、これだけじゃ足りない。」

佐久間はパソコン画面に映し出されたRFIの回答フォーマットを見つめた。

「数値だけじゃなくて、現場の“空気”も見に行く必要がある。書いてあることと、やっていることが一致しているか――それを見極めるのは、こっちの責任だ。」

翌週、2人は最初の候補企業を訪問した。

工業団地の一角にある中堅物流会社。応接室で出迎えたのは、営業部長の加藤だった。
RFIの回答は提出済み。
誤出荷率は年間20PPM、安全管理もISO取得済み。
書類上は問題ない。

「ご安心ください。当社は3PLとして、複数のメーカー様の物流を一括管理しています。今回のご依頼も、すぐに対応できると思います。」

言葉に迷いはなかったが、佐久間はあえて聞いた。

「現場を、直接見せていただけますか?」

加藤が一瞬、表情を曇らせた。
だがすぐに「もちろんです」と立ち上がった。

倉庫内に足を踏み入れると、温度はやや暑く、床の端には未整理の空箱が積み上がっていた。
フォークリフトがすれ違うたびに、ヒヤリとする動線の狭さ。
作業者同士の声が飛び交っていたが、笑顔はなく、どこかピリついていた。

「5S……ちょっと甘いですね。」

美咲が小声でつぶやく。佐久間はうなずいた。

「標準作業書、どこにありますか?」

「ええと、こちらに……」
案内された事務所の棚には、ファイルがぎっしり詰まっていた。
だが、最新版がどれか、すぐには分からない。

「見える場所に置いてないと、誰も見ませんよね。」

その言葉に、加藤は少しばつが悪そうに笑った。

帰りの車中、美咲が言った。

「表の数字は良かったけど、現場の実態はちょっと……でしたね。」

「数字と現場のギャップが大きいところは、長く付き合えない。」

佐久間の声は静かだった。

残る2社の訪問も、彼らの目にはしっかり映っていた。
誤出荷ゼロをうたう会社の現場で、検品シートが未記入のまま積まれていた。
コストが最安だった会社の倉庫は、作業員の入れ替わりが激しく、マネージャーが全員の名前を把握できていなかった。

「うちは、長く付き合える“相性の良い会社”を選ぶんだ。」

そう言った佐久間の言葉が、美咲の胸に強く残った。

そして3社目の候補。
決して派手ではないが、現場には整理された空気があった。
作業台には手順のイラスト入り手順書が掲示され、作業員の動きも統一されていた。
現場の責任者は「うちのやり方を見て、足りないところがあれば、ぜひ教えてください」と笑った。

数字も、言葉も、現場も――すべてがつながっていた。

数日後、佐久間は正式にその会社に委託契約を決めた。

「この会社なら、仕様書をちゃんと読んで、ちゃんと理解してくれる。信じて任せられる。」

そう言って、美咲と目を合わせた。

「ようやくスタートラインに立てたな。」

第4話:引き継ぐための言葉

梅雨入りを前にした曇り空の朝、真栄物流センターに新たな空気が流れ始めていた。
正式に委託契約を結んだ外注会社「光物流」から、3名のスタッフが現場にやってきたのだ。

初日、現場の休憩室にて。
佐久間と美咲は、外注スタッフと向き合っていた。
制服も雰囲気も異なる“よそ者”たちを、現場の空気にどうなじませるか――それが今日のテーマだった。

佐久間は、手元の資料を見せながら、ゆっくりと話し始めた。

「この資料が、今回お願いする作業の“仕様書”です。仕事の内容だけじゃなく、どんな準備が必要で、どこに注意してほしいかを全部書いています。」

3人のスタッフは静かにうなずく。
が、彼は言葉を続けた。

「ただし……これを読んだからといって、すぐに現場の“空気”がわかるわけじゃない。だから今日は、一緒に動きながら、実際の仕事を体感してもらいます。」

仕様書は完璧に整えた。
けれど、それは“橋”にすぎない。
渡るのは人間であり、伝えるのもまた、人間だ。

まず取りかかったのは、BtoB商品の入庫検品作業。
光物流のスタッフの1人・小林は、慎重に台車を動かしながら佐久間の指示に従っていた。

「ラベルはここで照合、OKなら赤ペンでチェック。問題があれば、この“気づきメモ”に記録しておいてください。」

美咲が指差したのは、検品台に設置された現場用メモボードだった。
これは仕様書には書かれていない、“現場で生まれた工夫”だ。

小林はすぐに気づいたようだった。

「こういう記録、他の現場じゃやってませんでした。でもこれ、あとでトラブル防止に効きますね。」

「うん、誰がやっても“考えながら”作業できるようにするのが、私たちのルールです。」

美咲の口調は穏やかだったが、その目は真剣だった。

昼休み。
久保田がポツリとつぶやいた。

「……正直、最初は外注って聞いて反対だったけどよ。」

佐久間がチラリと視線を向ける。

「仕様書ってもんが、こんなに効くとは思わなかった。ウチの若い連中より、あの人たちの方が作業の“意味”を分かろうとしてる気がする。」

「それは……“書いた側の責任”もあるんだろうな。」

佐久間の目が、少しだけ笑った。

午後。
検品、仕分け、格納まで、一連の流れを1日体験した外注スタッフに対し、美咲は最後にこう伝えた。

「仕様書は、“作業の手順”じゃなくて、“私たちの思い”も込めて書いています。
どうすればミスが減るか、お客さんに迷惑をかけないか、私たちなりに考えてきたつもりです。だから、もしやりにくいところがあったら、ぜひ意見をください。どんどん一緒に良くしていきましょう。」

小林がうなずいた。

「最初は“マニュアル渡されて終わりかな”と思ってたけど、ここは違いますね。ちゃんと“関係を作ろう”としてくれてる。やりがい、感じます。」

夕方、作業を終えた倉庫の一角で、佐久間がぽつりと言った。

「仕様書を書いて、現場を整理して、伝えた。でも一番大事なのは――“伝えたあと”だったな。」

「え?」

「言葉だけじゃ届かない。でも、言葉がなければ、始まりもしない。だから、仕様書ってのは“入口”なんだな。本当に伝えるのは……これから、ずっと続いていく対話のほうだ。」

美咲はその言葉を、しっかりと胸に刻んだ。

第5話:見える化のその先へ

外注スタッフの作業が本格的に現場へと溶け込み始めたのは、委託開始から3週間が過ぎた頃だった。

仕様書を軸にした引き継ぎは順調に進み、ミスもクレームも出ていない。
倉庫内では、光物流のスタッフと真栄物流の社員が自然に声を掛け合い、手順を確認し合う姿も見られるようになった。

「なんだか、うちの現場が前より“柔らかく”なった気がしますね。」

そう言った美咲に、佐久間も少しだけ笑った。

「言葉が生まれると、変わるもんだな。」

そんなある日。
朝礼のあと、美咲がやや険しい表情で佐久間に近づいた。

「センター長、来週からの案件、見ましたか?」

「ん? ああ、あれか。あの大口の追加出荷?」

「そうです。1日平均40ケースだったBtoBの検品作業が、いきなり80ケース超えになるみたいです。繁忙期レベルを超えてます。」

「……予定より、早く来たな。」

佐久間は資料を見ながら、仕様書の該当部分を開いた。
そこにはこう書かれている。

「作業量が日平均50ケースを超える日が5日以上連続する場合、追加見積もり・体制再協議の対象とする」

「これ、“口約束”じゃなくて、ちゃんと仕様書に書いてあるんですね。」

「そのために書いたんだ。“想定外”を、“想定内”に変えるために。」

翌日、光物流の責任者・松永がセンターにやってきた。

「聞きました。作業量、かなり増えるんですね。」

「ええ。これまでは予定通りでしたが、来週からは2倍近くに増えます。こちらとしては、再見積もりと体制の見直しをご相談したいと思っています。」

佐久間の言葉に、松永はすぐにうなずいた。

「仕様書に書いてありましたよね。うちの方でも予備スタッフを2名増員できます。ただ、教育に1~2日いただけますか?」

「もちろん。それまでの間は、うちのスタッフで一時的にフォローします。」

話は驚くほどスムーズにまとまった。

会議室を出たあと、美咲がつぶやいた。

「これ、もし仕様書がなかったら、“やって当たり前”って思われてましたよね。」

「なかった頃は、そうだったよ。『言われてないけど空気読め』『とりあえず回せ』ってやつな。」

「それ、うちの過去の文化でしたね。」

2人は苦笑した。
だがそれは、成長の証でもあった。

その週末。
佐久間は事務所でひとり、仕様書の更新作業をしていた。

「“現場は変わる”。だから、仕様書も変わらなきゃならない。」

作業量の変動だけでなく、新しい資材の導入、作業台の配置変更、それに伴う動線の再設計――
今後もどんどん変わっていく。それを“見える言葉”にしていくのが、自分の仕事だ。

彼は仕様書の最初のページに、新たに1行を加えた。

「この仕様書は、現場とともに成長する生きたドキュメントである。」

第6話:属人性を超えて

6月の朝は湿気をまといながら始まる。
この日、美咲はいつもより早く倉庫に入っていた。
今日から、光物流から追加で派遣された2名の新人スタッフが本格的に現場に入る。

「教育は私が担当します。仕様書と動画マニュアルを使って、初日の午後までに基本作業を覚えてもらいます。」

佐久間にそう告げたとき、美咲は少しだけ緊張していた。
これまでの引き継ぎは“既に慣れたメンバー”とのやりとりだった。
今回は、まっさらな新人。
仕様書だけで、本当に現場を回せるのか――その試金石になる。

午前9時。
新しく配属されたのは、20代の坂口と30代の庄司。
どちらも物流経験は浅く、入庫検品は初めてだという。

「まずは、これを見てもらいます。」

美咲は2人に、検品作業の動画と仕様書を渡した。
作業の流れ、注意点、数量のばらつき、記録の取り方――映像と文書でセットにして伝える。

「途中で分からないことがあったら、必ず声をかけてください。“なんとなくやる”のが一番危ないので。」

2人は神妙な面持ちでうなずいた。

だが、実際の作業が始まると、早速小さなズレが出始めた。
坂口は検品のラベル貼付位置を毎回少しずつ変えていた。
庄司は、台車の置き方が他のスタッフと違っていたため、通路を塞いでしまう場面もあった。

「……これは、うちのルールでは“ミス”になります。」

美咲がやんわりと指摘すると、坂口は困ったような顔をした。

「前の職場だと、もっと自由だったんです。作業しやすければ、多少変えてもよくて……」

美咲は一瞬、言葉を選んだ。そして、穏やかに語り始めた。

「なるほど。でも、うちは“誰がやっても同じ品質”を大事にしています。それは、人を疑ってるからじゃないんです。逆に、信じてるからこそ仕組みにするんです。一人のやり方に頼らないことで、誰かが抜けても、同じように仕事ができる。そうすれば、あなた自身も守られるんですよ。」

坂口は少しだけうなずいた。

午後。
久保田が近づいてきた。

「見てると……新人たち、ちゃんと指示どおりやろうとしてるな。昔だったら、『体で覚えろ』で済ませてたけどよ……言葉にして伝えるって、やっぱ大事なんだな。」

「今までは“人”に頼りすぎてましたもんね。属人化、ってやつです。」

「……あれだな。“俺じゃなきゃできない”って、誇りでもあったけど、同時に縛りでもあったのかもな。」

美咲はうれしくなった。久保田のその一言が、何よりの変化だった。

夕方。
坂口と庄司が作業報告の記録を書き終え、美咲の元に戻ってきた。

「最初は戸惑いましたけど……ルールがはっきりしてるって、実はやりやすいんですね。なんか、ちゃんと“会社の一員”になれた感じがします。」

その言葉に、美咲は静かに笑った。

「それ、すごく大事なことですよ。仕様書って、“仕事のやり方”を伝えるだけじゃなくて、“現場の信頼関係”をつくるためにあるんです。」

その日の終業後、佐久間は報告を聞きながら一言つぶやいた。

「属人性を超えるって、“誰がやっても同じにする”ことじゃないんだな。」

「えっ?」

「“誰でも安心して働ける状態をつくる”ってことなんだよ。その先に、“同じ品質”がついてくる。今日の現場、そうだったよな。」

美咲は静かに、深くうなずいた。

第7話:継承するチカラ

夏の足音が近づく6月下旬。
真栄物流センターでは、ある男の引退が静かに話題になっていた。

久保田清、58歳。
この倉庫の立ち上げ当初から在籍し、30年以上現場を支え続けてきたベテラン作業員だった。

「久保田さん、ほんとに今月いっぱいで辞めちゃうんですか?」

昼休み、美咲が尋ねると、久保田は照れくさそうに笑った。

「もう、体が動くうちに区切りつけとこうと思ってな。孫も生まれるしよ。」

「でも、久保田さんがいなくなったら、この倉庫……ちょっと心細いです。」

「バカ言え。今やお前らの方がよっぽど“ちゃんとした現場”をつくってるじゃねぇか。」

そう言って笑う久保田だったが、内心では少しだけ気がかりもあった。
彼の頭の中には、紙にも動画にも残っていない“現場の知恵”が山ほど詰まっている。
異音の違いでトラブルを察知する耳、物量の微妙な偏りを目で見抜く感覚、仕分け台の傾き一つで作業スピードが落ちること……
それらは「経験」としか言いようがなく、教えるタイミングも逃しがちだった。

ある日の午後、佐久間が久保田を事務所に呼んだ。
小さなホワイトボードとノート、そして録音用のスマートレコーダーが用意されていた。

「久保田、あんたの引退前に一つ頼みがある。」

「え、説教か?」

「いや、伝承だ。」

佐久間がニヤリと笑った。

「この倉庫の“音”、感じてるだろ? あんたが“あれ、なんか変だぞ”って言うとき、大体正解だ。その“なんか変だ”を、できるだけ言葉にしてほしいんだ。」

久保田はしばらく黙っていた。
だが、ゆっくりと頷いた。

「いいぜ。誰かがそれ、聞いてくれるんならな。」

翌日から、久保田と美咲の「伝承ノートづくり」が始まった。
• 台車のタイヤが“キュッ”と鳴る音が出たら、床に異物がある証拠
• 夏場、午後2時以降は床が膨張して通路の幅が微妙に狭くなる
• 梱包ラインの机が5ミリ傾いてると、流れが悪くなる

「こんなの、仕様書じゃ書かねぇだろ?」

「だから書きます。次の人が“違和感を違和感のまま終わらせないように”するために。」

ノートは日ごとに厚みを増し、そこにはベテランの感覚が少しずつ、“言葉”になって刻まれていった。

最終出勤日。
久保田はいつものように作業をこなし、最後の休憩時間、美咲にそっとノートを渡した。

「後は頼んだぞ。俺の代わりなんていらねぇけど、あの倉庫が“止まらねぇ”ようにな。」

「……引き継ぎ、完了です。」

ノートを受け取った美咲の手は、少しだけ震えていた。

その日の終礼。
佐久間が久保田の名前を呼んだ。

「この倉庫は、今日で一人の“達人”を見送ります。でも、久保田が残したのは“記憶”じゃない。ちゃんと“言葉”になった。それは、これからの俺たちが使える“道具”になる。久保田、本当にありがとう。」

久保田は皆の前で軽く頭を下げた後、ぽつりとこう言った。

「仕様書ってのは、俺にとっちゃ、ちょっと照れくさいもんだったよ。でもな、これがあると、“俺のやってきたことが残る”って思えたんだ。悪くないもんだな。」

最終話:仕様書のある現場

7月の陽射しが倉庫の天井から差し込む午後。
久保田の引退から1か月が経ち、現場は驚くほど落ち着いていた。

入庫、検品、仕分け、出荷――
一連の作業は、誰がどこにいても、同じ品質で流れていた。
仕様書は単なる“指示書”から、“仕事の共通言語”に変わりつつあった。

倉庫の休憩室。
壁には、最新の「標準作業仕様書一覧」が掲示されていた。
毎週更新されるその紙には、作業ごとの要点、注意事項、変化点、そして「現場からの提案メモ」欄が追加されている。

「この提案って、庄司さんが書いたやつですよね? “検品台の棚、もう5センチ高くした方がいい”って。」

「ああ、そうそう。あれ、腰の負担が軽くなるって評判いいよ。」

ベテランも新人も、社員も外注も、みんなが“仕様書の余白”に自分の意見を残していく。
気づいたことを記録し、それを反映して仕様書がアップデートされる――
もはやそれは、紙ではなく「現場の知恵の循環」だった。

その日の終礼後。
佐久間は事務所の奥に美咲を呼び出した。

「少し話がある。座れ。」

「……なんか、怒られるんですか?」

「いや、頼みごとだ。」

そう言って彼は、1冊のバインダーを差し出した。
そこには、全作業分の仕様書が一元管理された最新版が綴じられている。

「これは、もう“俺の仕事”じゃない。これからは、お前が持て。」

「え……?」

「現場が“仕様書を自分たちのものとして扱ってる”のは、お前の力だ。現場に歩いて入り、声を聞いて、文書を直して……そういう姿勢がなかったら、誰も仕様書なんて見向きもしなかった。」

美咲は、静かにそのバインダーを受け取った。
指先に、その重みを感じた。

「私で、務まりますかね。」

「務まるかじゃない。“一緒に育てていく”んだよ、現場と仕様書を。」

佐久間の声には、確信と希望が混ざっていた。

翌朝、美咲は仕様書を手に、現場に立った。

「おはようございます! 今日は、検品ラインの台車配置をちょっと見直してみようと思います。皆さん、昨日の作業で気づいたこと、ありませんでしたか?」

若手のスタッフが手を挙げた。

「動線がちょっと狭かったかも。荷物の回転が遅れてました。」

「いいですね、それ、今日の改善メモに残しましょう。」

仕様書は今、“現場の声が集まるノート”になっていた。

夏の風が通り抜ける中、美咲は久保田から受け継いだ「伝承ノート」の最終ページをめくった。
最後の行に、こう書かれていた。

「仕様書は、未来の誰かへの“手紙”である。
今の気づきを、未来の仕事につなげる。
そうすりゃ、仕事は止まらねぇ。俺がいなくても、だ。」

― 終 ―

あとがき的メッセージ

「仕様書」は、紙の資料ではない。
それは、過去の知恵を今に伝え、今の行動を未来につなげる、“現場の文化”である。
誰か一人の知識に頼らず、みんなで知恵を出し合い、仕組みで守り、改善する――
そんな現場にこそ、誇りが生まれる。


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