参謀という名の名コーチ
目次
- 1 藤沢氏は、脇役の心得と戒禁を、
- 2 「主役の本当のモノをつかんでいないと、脇役は務まらない。
- 3 主役が途中でぐらついたら、その時脇役は、交代をしなければならない。
- 4 だから、仮に主役の考え方が動揺したり、別なモノに向かった場合は、脇役は主役に確かめてみる必要がある。
- 5 それを確かめないで脇役が動いたら、全体が動いてしまう。
- 6 脇役と言うのは、かつて主役が持っていたところのモノの、あるいは持ち続けているモノを、どこまでも大事にする事ですよ。
- 7 これが、脇役の大原則だね。
- 8 主役と言うのは、どこまでいっても主役であり、その主役に思うようにさせてあげなければ、脇役の役目は果たせない。
- 9 その為には、主役の本当のモノをつかみ、脇役が腹におさめる事ですね。」
- 10 と説き、脇役の原則論を
- 11
- 12 「アタシはパーティーがあっても、本田と一緒に顔を出した事は数えるほどしかない。
- 13 本田がパーティーに出ている時、アタシは、別の場所で芸者遊びをしたり、昼寝をしていましたよ。
- 14 二人が、たえず一緒にいなけてばいかんと思う事ほど、不安なモノはない。
- 15 二人が離れていて、しかも安定している事が大事なんで、アタシがもし、多少なりとも会社につくしたとすれば、アタシ達だけでなく、会社の人間がすべて自由に行動出来た事じゃないですか。
- 16 一人一人の人間の行動を規制せず、それでいて、一つの目標に向かって進む事が出来た、と言う事ですよね。
- 17 だから、脇役が、主役にくっついていなきゃいかんと言う事はナンセンスな事であり、必要な時に出ればいい。
- 18 脇役には脇役として、どうしても出なければならない場面がある。
- 19 それは、主役に脚光を浴びせる時と、何かの拍子に、主役が傷つきそうになった時ですよ。
- 20 その時にこそ脇役は、最大限の演技力を発揮しなければならない。
- 21 幸い、本田が途中で他の方向へ動いたと言う事は、一度もなかった。
- 22 だからこそ、24年間、役者が変わることなく、一緒にやれたんですね。
- 23 その点、アタシは幸せであった。
- 24 主役と脇役の心が通じ合い、一体になっていたから、共演出来たんですね。
- 25 また、他の役者(ホンダ・マン)だって、苦労も多かったが、一緒に楽しく芝居が出来たと思うんですよ。」
- 26
- 27 と語る。
- 28
- 29 そして、過去に難局を切り抜けてきた藤沢氏だからこそ、自ら、
- 30
- 31 「アタシは山師であり、舞台回しをさせたら天下一品ですよ。」
- 32 と豪語出来たのだと思う。
- 33
- 34 藤沢氏は、宗一郎氏の最大の理解者であり、可能性を最大限活かせる舞台演出をしたが、それは、同時に本田技研工業・本田技術研究所の従業員の可能性を最大限活かす舞台をも創ったのではないかと思う。
- 35 従業員の為の舞台作りは、ワイガヤと言われる役員室であり、研究所の分離独立だと思う。
- 36 それぞれの部署で従業員は確実に成長し、自らの可能性を大きく広げ、宗一郎氏・藤澤氏抜きの組織が自然と成長し完成したのではないかと思う。
- 37
- 38 また、二代目副社長である川島喜八郎氏は、
- 39 「オジ上(藤沢氏)は、何かと気を使って、私達を引き立ててくれていますが、しかし、本当の事をいいますと、私達はオジ上の指示通りに動いただけなんです。
- 40 そりゃもう、オジ上はたこ揚げの名人ですよ。
- 41 こっちは、いい調子で風を受けて揚がっていましたが、いつの場合でも、オジ上は決して、遠くまで揚げない。
- 42 常に適当な距離を保って、糸を操っていました。
- 43 私達があまり遠くまで揚がっちゃうと、コントロール出来なくなるからですね。
- 44 それでいて、成果を自分のモノにせず、みんな部下に譲ってくれたんです。
- 45 どおして、どおして、たいへんなタコ揚げ名人ですよ。」
- 46 と語っている。
- 47
- 48 藤沢氏は常に、
- 49
- 50 「上に立つ者は、部下の仕事を取ってはいけない。」
- 51 と言い続け、自らその”範”をしてしていた事になる。 このような言動を読むと藤沢氏は、しっかりした経営哲学を初めから持っていたように思うが、そうではなかった。
- 52 その事に関して藤沢氏は、
- 53
- 54 「本田宗一郎に会わなかったら、アタシの経営哲学はなかった。
- 55 アタシは本田と組んで初めて、経営哲学らしきものを持ち得たんです。」
- 56
- 57 と言う。
- 58 とは言え、藤沢氏は、宗一郎氏と出会う前から、自ら事業は起こし、それなりに成功をしていた。
- 59 それでもなお、宗一郎氏と組んだ事に関して、
- 60 「本田と組んだアタシの人生は、最高に幸せだったねぇ。
- 61 もし、本田が他の人間だったら、アタシは組まなかったかもしれない。
- 62 おそくらく、アタシは一匹狼で、好きな事をやっていたでしょう。
- 63 だけど、あの人に非常に魅力があったから、アタシは組んだんですよ。
- 64 そうすると、あの人の能力が最大限に発揮出来るよう、思う存分仕事が出来るようにする事が、企業の発展につながるんですから、、それを制約するようなモノをコントロールしなければならない。
- 65 それが、アタシの役目だったんですね。
- 66 その点、本田にふさわしいスタートをしたと思うんです。」
- 67 と藤沢氏は語っている。
- 68
- 69 藤沢氏は、宗一郎氏の参謀役でありながら、本田技研工業・本田技術研究所の組織作りをしながら、そこで働く見込みのある人材をサポート・コーチングする事で、宗一郎氏・藤沢氏が抜けた組織作りが出来たのではないかと思う。
- 70 その証拠に宗一郎氏と藤沢氏が二人が口をそろえて、
- 71 「我々が選んだ後継者です。絶対に間違いない。」
- 72
- 73 と太鼓判を押す事が出来たのではないだろうか。
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藤沢氏は、脇役の心得と戒禁を、
「主役の本当のモノをつかんでいないと、脇役は務まらない。
主役が途中でぐらついたら、その時脇役は、交代をしなければならない。
だから、仮に主役の考え方が動揺したり、別なモノに向かった場合は、脇役は主役に確かめてみる必要がある。
それを確かめないで脇役が動いたら、全体が動いてしまう。
脇役と言うのは、かつて主役が持っていたところのモノの、あるいは持ち続けているモノを、どこまでも大事にする事ですよ。
これが、脇役の大原則だね。
主役と言うのは、どこまでいっても主役であり、その主役に思うようにさせてあげなければ、脇役の役目は果たせない。
その為には、主役の本当のモノをつかみ、脇役が腹におさめる事ですね。」
と説き、脇役の原則論を
「アタシはパーティーがあっても、本田と一緒に顔を出した事は数えるほどしかない。
本田がパーティーに出ている時、アタシは、別の場所で芸者遊びをしたり、昼寝をしていましたよ。
二人が、たえず一緒にいなけてばいかんと思う事ほど、不安なモノはない。
二人が離れていて、しかも安定している事が大事なんで、アタシがもし、多少なりとも会社につくしたとすれば、アタシ達だけでなく、会社の人間がすべて自由に行動出来た事じゃないですか。
一人一人の人間の行動を規制せず、それでいて、一つの目標に向かって進む事が出来た、と言う事ですよね。
だから、脇役が、主役にくっついていなきゃいかんと言う事はナンセンスな事であり、必要な時に出ればいい。
脇役には脇役として、どうしても出なければならない場面がある。
それは、主役に脚光を浴びせる時と、何かの拍子に、主役が傷つきそうになった時ですよ。
その時にこそ脇役は、最大限の演技力を発揮しなければならない。
幸い、本田が途中で他の方向へ動いたと言う事は、一度もなかった。
だからこそ、24年間、役者が変わることなく、一緒にやれたんですね。
その点、アタシは幸せであった。
主役と脇役の心が通じ合い、一体になっていたから、共演出来たんですね。
また、他の役者(ホンダ・マン)だって、苦労も多かったが、一緒に楽しく芝居が出来たと思うんですよ。」
と語る。
そして、過去に難局を切り抜けてきた藤沢氏だからこそ、自ら、
「アタシは山師であり、舞台回しをさせたら天下一品ですよ。」
と豪語出来たのだと思う。
藤沢氏は、宗一郎氏の最大の理解者であり、可能性を最大限活かせる舞台演出をしたが、それは、同時に本田技研工業・本田技術研究所の従業員の可能性を最大限活かす舞台をも創ったのではないかと思う。
従業員の為の舞台作りは、ワイガヤと言われる役員室であり、研究所の分離独立だと思う。
それぞれの部署で従業員は確実に成長し、自らの可能性を大きく広げ、宗一郎氏・藤澤氏抜きの組織が自然と成長し完成したのではないかと思う。
また、二代目副社長である川島喜八郎氏は、
「オジ上(藤沢氏)は、何かと気を使って、私達を引き立ててくれていますが、しかし、本当の事をいいますと、私達はオジ上の指示通りに動いただけなんです。
そりゃもう、オジ上はたこ揚げの名人ですよ。
こっちは、いい調子で風を受けて揚がっていましたが、いつの場合でも、オジ上は決して、遠くまで揚げない。
常に適当な距離を保って、糸を操っていました。
私達があまり遠くまで揚がっちゃうと、コントロール出来なくなるからですね。
それでいて、成果を自分のモノにせず、みんな部下に譲ってくれたんです。
どおして、どおして、たいへんなタコ揚げ名人ですよ。」
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と語っている。
藤沢氏は常に、
「上に立つ者は、部下の仕事を取ってはいけない。」
と言い続け、自らその”範”をしてしていた事になる。
このような言動を読むと藤沢氏は、しっかりした経営哲学を初めから持っていたように思うが、そうではなかった。
その事に関して藤沢氏は、
「本田宗一郎に会わなかったら、アタシの経営哲学はなかった。
アタシは本田と組んで初めて、経営哲学らしきものを持ち得たんです。」
と言う。
とは言え、藤沢氏は、宗一郎氏と出会う前から、自ら事業は起こし、それなりに成功をしていた。
それでもなお、宗一郎氏と組んだ事に関して、
「本田と組んだアタシの人生は、最高に幸せだったねぇ。
もし、本田が他の人間だったら、アタシは組まなかったかもしれない。
おそくらく、アタシは一匹狼で、好きな事をやっていたでしょう。
だけど、あの人に非常に魅力があったから、アタシは組んだんですよ。
そうすると、あの人の能力が最大限に発揮出来るよう、思う存分仕事が出来るようにする事が、企業の発展につながるんですから、、それを制約するようなモノをコントロールしなければならない。
それが、アタシの役目だったんですね。
その点、本田にふさわしいスタートをしたと思うんです。」
と藤沢氏は語っている。
藤沢氏は、宗一郎氏の参謀役でありながら、本田技研工業・本田技術研究所の組織作りをしながら、そこで働く見込みのある人材をサポート・コーチングする事で、宗一郎氏・藤沢氏が抜けた組織作りが出来たのではないかと思う。
その証拠に宗一郎氏と藤沢氏が二人が口をそろえて、
「我々が選んだ後継者です。絶対に間違いない。」
と太鼓判を押す事が出来たのではないだろうか。
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