お仕事短編小説『選ぶ、という行動』

第一章:不在というストレス
「また……不在票か」
ポストから紙を抜いた瞬間、奈々の肩がストンと落ちた。
湿気を含んだ空気の中で、薄い紙が指にしっとりと張りつく。
ため息と一緒に、背中からじわりと疲れが広がった。
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その日も、仕事と育児でバタバタだった。
保育園への送り、午後からは子どもの体調を気にしながらの時短勤務。
帰ってきた頃には、宅配が来た形跡だけが玄関先に残されていた。
「時間指定したの、私なのに……また間に合わなかった」
玄関の鍵を開ける手が、少し震えていた。
感情というより、焦りと悔しさが指先に残っていた。
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ダイニングテーブルに置かれた前回の置き配の段ボール。
梅雨の雨で濡れて、底がふやけ、わずかに変形していた。
一度は開けたけれど、中身が濡れていたため返品した。
そのときのやり取りに費やした時間とストレスが、また脳裏をよぎる。
「交換手続きも、チャットサポートも、時間かかって……正直、めんどくさい」
小さなため息が、喉元で何度も引っかかっていた。
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スマホで再配達を申し込もうとして、ふと指が止まる。
「また在宅して待って、玄関にダッシュして……
そんなことで毎回、頭を使うのって……普通なの?」
画面を見つめる目が、どこか虚ろだった。
生活の中で、「荷物が届くこと」がいつのまにか“負担”になっていたことに、奈々はようやく気づいた。
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夜、子どもが寝静まったあと。
リビングの明かりの下で、ぼんやりとカレンダーを見ていた奈々は、
ふと口にした。
「……もう、近くの店で買えばいいんじゃない?」
その声は、誰に向けたものでもない。
けれど、そのときの顔には、“少しでも自分を取り戻したい”という願いが、静かに浮かんでいた。
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もし、あのとき彼女が「買いに行く」という行動を選ばなかったら、
この先も同じような不在票を受け取り、同じようなため息をついていたかもしれない。
でもその夜、小さな決断が、彼女の生活を少しだけ変えていくことになる。
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第二章:届ける人の顔
近藤雑貨店は、自宅から徒歩5分。
小さな店構えの、その一角には、どこか懐かしい空気が流れていた。
軒先には紙袋と手書きPOPが並び、店内からは微かに床ワックスの香りが漂ってくる。
ドアベルがチリン、と鳴った。
奈々はベビーカーを押しながら、そっと足を踏み入れた。
「……久しぶりかも。ここ、まだやってたんだ」
心の中で小さくつぶやく。
コロナ以降、ネット通販ばかり使っていた。
実店舗に入るのは、なんだか“生活に追いついた気がして”、逆に落ち着かない。
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「いらっしゃい、中村さん。トイレットペーパー、奥にありますよ」
奥から出てきたのは、店主の近藤亮太。
白髪混じりの前髪を手で整えながら、ニコリと笑った。
「こんにちは……あ、あの、洗剤とティッシュと……あれば、おしりふきも……」
奈々は声をやや抑え気味に、でも少し早口で言った。
どこか“急いでいる自分”が抜けきっていない。
子どもが騒がないうちに済ませたい、という焦りもある。
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棚の前で洗剤を手に取り、値札を見た奈々の眉がぴくりと動く。
「……ちょっと高いですね」
思わず口に出た。
1本398円。ネットならクーポン込みで340円台。
その差が、生活者には大きく感じる。
でも、同時に“ここでそんなことを言っていいのか”という葛藤もあった。
近藤は苦笑いしながら、手をゆっくり広げて言った。
「まあね。でもさ、送料入れたら、案外変わらないでしょ?
ここなら雨にも濡れないし、壊れることもない。
盗られる心配もゼロ。しかも今日、すぐ使える」
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奈々は、思わず目をそらしながら、小さく笑った。
「……確かに。配達って、“届くまで”がずっと不安なんですよね……。
これ、ちゃんと届くかな?って、ずっとアプリ見ちゃったりして……」
その言葉を言いながら、自分でもハッとする。
便利さの裏で、気づかないうちに「気を使い続ける日常」になっていたこと。
その違和感を、初めて口に出した気がした。
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「そういう小さな不安がないって、案外、大事でしょ?」
近藤の言葉は、優しいトーンだったけれど、まっすぐだった。
その一言が、奈々の胸の奥にすっと届いた。
“買う”って、こういう対話の中で、安心も一緒にもらえることだったんだ。
奈々はゆっくりと頷きながら、
「……はい。こういうの、ほんとに久しぶりです」
そう言って、思わず手に持っていた洗剤を、しっかりと胸の前で抱え直した。
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第三章:心が歩き出す
家に戻る道すがら、中村奈々は紙袋をしっかりと両手で抱えながら歩いていた。
今日は、思い切ってネットではなく近所の雑貨店で日用品を買った。
洗剤やトイレットペーパー、おしりふき。
どれも少しだけ重たい。けれど、不思議なことにその重さは、心にとっては軽かった。
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アスファルトの隅をよけながら、ベビーカーのタイヤを慎重に操作する。
その間も、何度か紙袋を持ち直しながら、息子の帽子が風で飛ばされないように片手で押さえた。
「こんなに、ちゃんと“買い物した”って感じたの、いつぶりだろう……」
そう思った瞬間、口元にふっと笑みが浮かんだ。
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家に着くと、玄関の鍵を開け、ベビーカーを止めて、息子を抱きかかえる。
ふと、自分の手のひらに汗がにじんでいるのに気づいた。
玄関先に荷物が置かれていることも、再配達の不在票があることもない。
今日は、自分の足で選び、手で持ち帰ってきた。
「届いていない不安」や「申し訳なさ」からも解放された一日だった。
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リビングに入り、紙袋の中身をひとつひとつ取り出しながら、奈々は気づいた。
洗剤の香りがいつもより、少しだけ“わたしの生活”に溶け込んでいる気がする。
袋の口に手を入れるたびに、ちゃんと「自分が選んだ」感覚が手に残る。
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「“便利”に甘えてたというより、
“選ばないこと”に慣れすぎてたのかもな……」
そう思うと、心の奥で何かがほどけるような感じがした。
夫にも子どもにも何も言わなかったけど、
奈々は確かに、今日は“暮らし方”のスイッチを少しだけ変えた。
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スマホに届いた「お買い忘れはありませんか?」という通販アプリの通知。
奈々はそれを、スッとスワイプで消した。
「今日はもう、大丈夫だから」
声に出さなかったその言葉が、
自分にとっての“初めての小さな主張”だった気がした。
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その夜、いつもよりゆっくりお風呂に入り、髪を乾かしていると、
鏡の前の自分が、どこかやわらかい顔をしていることに気づいた。
「変わったのは、買い方だけじゃないのかもしれないな」
奈々は、ドライヤーのスイッチを切ると、
鏡の中の自分に、そっと小さくうなずいた。
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第四章:宅配という誇りと限界の狭間で
午後5時半。雨上がりの空に、まだ雲が滲んでいた。
葉山拓海は、営業所の奥で再配達の山を前に立ち尽くしていた。
「不在票」「取り置き」「保管期限超過」。
荷物ひとつひとつが、配りきれなかった“証”のように積み上がっている。
腕時計を見ると、18時便の積み込みまで、あと20分。
彼はふぅっと息を吐き、制服の袖で額の汗をぬぐった。
「便利を売ってる以上、荷物を届けるのが俺たちの仕事だってことは、分かってる」
口にした言葉は、誰に向けたものでもなく、自分への確認だった。
それでも──心の奥には、重たい違和感が燻っていた。
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ここ数年、配送の形は変わった。
置き配、ロッカー受け取り、時間指定、営業所引き取り……
選べる選択肢は増えたが、現場がそのすべてを“黙って受け止める前提”になっている。
「便利さの裏側で、何が起きてるかなんて……誰も知らないままなんだろうな」
そうつぶやくと、彼は静かにしゃがみこみ、再配達の段ボールのラベルを見つめた。
昨日届けに行ったが不在。今日も来ない。明日はまた積まれる。
荷物に貼られたメモの跡をなぞる指が、わずかに震えていた。
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「俺たちはサービス業だ。でも“なんでも屋”じゃない」
「時間に追われて、人にも追われて、最後に“なんで来ないんだ”って怒られる」
「それでも、ちゃんと玄関前に立つのがプロだって、分かってる」
言葉のひとつひとつに、自分への律しと矛盾へのいらだちが混じっていた。
けれど、彼は弱音を吐くのではなく──
「現場は、限界の一歩手前で踏ん張ってる」ということを、どこかで分かっていてほしかった。
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彼の目は、倉庫の天井を見上げていた。
その奥にあるのは、配達先の家々。
笑顔で荷物を受け取る人、怒って出てくる人、反応すらない玄関。
それでも──
「最後に“ありがとう”って言われるだけで、俺たちはまた明日も立ち上がれる」
「それが、プロってもんだろ?」
拓海はゆっくりと立ち上がり、荷物を台車に載せた。
その顔には、ほんの少し疲れが残りながらも、
確かに“誇り”という名の静かな熱が宿っていた。
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第五章:次の一歩
夜9時を過ぎて、営業所には少し静けさが戻ってきた。
配達ドライバーの葉山拓海は、やっとの思いで今日の業務を終え、休憩室のイスにどさっと腰を下ろした。
缶コーヒーを開け、ひとくち。
冷たさが、喉を通っていく。
「……今日は少しマシだったな」
配送数は変わらない。でも、再配達がほとんどなかった。
置き配のトラブルもなし。営業所受け取りの荷物もスムーズに減っていた。
いつもより、ほんの少しだけ、気持ちが軽かった。
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ふと、カウンターの端にある「お客様の声BOX」が目に入った。
営業所に届いた感謝のメッセージやちょっとした気づきを、ドライバーが自由に読めるようになっている。
なんとなく手に取ったメモの1枚に、丁寧な手書きの文字が並んでいた。
「最近、近くのお店で買い物するようにしました。
配達の方がどれだけ頑張ってくれてるか、気づいたからです。
少しでも助けになれたらうれしいです。いつもありがとうございます。」
葉山は、少し驚いたように眉を上げ、それから、ゆっくりと笑った。
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思い出したのは、何度も配達に行っていた、あのアパート。
今日、その部屋には荷物がなかった。
不在でも、置き配でもなく、「注文がなかった」。
「そうか……たぶん、この人なんだろうな」
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葉山は、缶コーヒーをもうひとくち飲んでから、
心の中でつぶやいた。
「全部届けることだけが、オレたちの仕事じゃないのかもしれないな」
「“届けさせない選択”をしてくれる人がいるって、ありがたいよな」
これは、手を抜くって話じゃない。
便利を支える側として、しっかり責任を持って働く。
でも、受け取る側も少しだけ気を配ってくれるなら──
その分だけ、現場はラクになる。心も軽くなる。
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翌朝。配送車の助手席には、折りたたんだお客様のメモがそっと置かれていた。
エンジンをかける前に、それを見つめてから、
葉山は小さく深呼吸をした。
「よし。今日も行こうか」
昨日より少し、背筋が伸びていた。
荷物を運ぶその手には、“選ばれている実感”がちゃんと残っていた。
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エンディングメッセージ
荷物を手渡しで配達してもらうのが当たり前じゃなくなった今、
「どう受け取るか」を選ぶことは、誰かの助けになることもある。
実店舗で買う。
営業所で受け取る。
本当に必要なときだけ、家に届けてもらう。
その小さな選択が、宅配の未来と、届ける人の笑顔を守っていく。

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